読み屋さん

読んだ本のメモを書いてたり書いていなかったりするブログです

#2 セネカ「生の短さについて」(岩波文庫)

心を殺されて亡くすと書いて、忙殺

 初めて読みました、こういう古代哲学者の著書。

 セネカはローマ時代の後期ストア派の哲学者です。ストア派の(セネカの)考えは本当にざっくりまとめてしまうと「徳こそが最高善であり、自然と調和して生きることで徳が実践される」って感じです。自然と調和する=必要以上の華奢な生活は必要ないということですね。(哲学分野専門の勉強をしているわけではないので全く的外れなまとめをしていたらすみません)

 この本の何が凄いのかというとおよそ2,000年前に書かれたものとは思えないほど現代人にも刺さる言葉を残しているということなんですね。読んでいると本当に耳が痛くなります。

 

以下、概要と読後の感触

 

 今日、「自分のために生きなさい」「自分が本当にしたいことをしなさい。いつ人生が終わるかは誰にもわからない」といった言葉をよく耳にする。これらの文言は、実はセネカの時代にすでに言われている。セネカは他人に従事し、自分を忙殺している人間があまりにも多いと説く。そのような人間がいざ死を迎えるときに今までの人生が殆ど自分のために使われず、本当の人生を歩んだのは人生全体のわずかな時間だったと悟る。一方で閑暇を生きる人(=賢者)は自分のための時間を確保し、より良い生を生きるため日夜哲学に勤しむ。

 また、特に若者がよく言う「死にたい」という半ば本気、半ば衝動的な言葉があるが、それについてもセネカ「彼らが死を望むのは、往々にして彼らが死を恐れるからに他ならない」(16章より)と言及している。過去を忘れ、現在をなおざりにし、未来を恐れているから、不安になるのだ。思慮の浅い彼らは、いざ自分が閑暇の中に放り込まれると何をしてよいかわからず、狼狽し、結果的に自分を忙殺するものに救いを求める。

 賢者の生はどうかというと、回想によって過去を把握し、今を活用し、未来を予期する。そのように時を一つに融合することで自分の生を悠久のものにする。人生を目の前の仕事に忙殺され、いつの間にか死を迎えている人々の生となんという違いだろうか。

 

 もちろん、この本を読んでいると今の時代にはさすがにそぐわない考えも出てくるし、セネカの価値観は極端ですべてが今の社会に活かせるわけではない。しかし、現代社会を省みると、仕事に従事し、忙殺されている人間だらけではないか。勤勉はもちろん良いことだがそれは本当に自分のしたいことなのか。それを続けて死ぬときに後悔はないのか。一度手を止めて、考え直そうと思った。

 思い通りに生きることが、我々にはできる」(15章より)

「莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほどつましい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然とととのえる者には大きく広がるものなのである」(第一章より)